6/20
・学ぶ体系を。学ぶ体験を。
・批判ではなく、批評できること。
6/11
・分かりやすい言葉を話す訓練を。
・人格否定は癖。
・考えすぎとは。
・疑問形の恩恵。
6/11
・最小限の肉体の善。美は余分に生まれる。
・内と外と境界。内側は外側であって、自己矛盾が前提。
6/7
・破壊とは目的の瓦解、建設とは目的の収斂。
・飲み物に気を配らない性向。
6/3
・言葉を発する者として。言葉にする力が弱い。訓練が必要。
感覚値のお喋りになっている。伝わる努力。コツコツやっていかないと。
でも、何を伝える?ゴール地点が明確じゃない。
感情か、思考か、納得か、共感か、理解か。
逆の立場で考えてみて。
今日思ったこと。
外国語の会議に出て。
まぁ半分くらい何言ってるかわからないから、
どうせならということで、
聞いた内容が日本語で聞くのとどう違うのか考えていた。
それは、文を聞いて思いつくコンテクストの量の違いだと思う。
日本語の場合、聞いた中身を、瞬時に、日本語を用いて再定義しなおせる。
意味・本質を理解しているからだ、というのは早計な気がする。
むしろ、ある一文という手段を、同時に変換し直している。二つ三つ、もしくは、それ以上の方法で。
それでぼんやり中身を取り出している。
つまり、枠を作っているだけ。
もしくは到達ルートをいくつも用意している説もある。
その変換については、ほぼ無意識。
どうやってやっているんだろうと考えてみて、思いついたのは、経験則からの圧倒的な演繹かなぁというライン。
単語自体の変換だけではなく、文章構成の予測変換もずば抜けている気がする。人間という生き物は。
その変換回数が多ければ多いほど(勿論、変換にはある程度の妥当性がある。変換の妥当性については今は考えないとする)、理解が促される。
さて、立場を逆に戻す。
すると、よりよく理解されるということは、より変換の道筋を沢山用意できるような文章にするということ。
それも妥当性のある。
うーん、それだったら、たとえば、憶測を呼ぶような言葉もあるしな。
変換の能力は個体差だからで終わらない気がするし。
難しい。
課題 : 言葉の伝え方。
5/26
・積み重なっていかない感覚。
・終始目的がない。重大なラスをしている。