いつでも行方は私たちのことだけ

メモメモ、覚え書き

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・何がしたいの?何ができるの?

・私のせい?私が悪い?価値尺度が外にある。なんか相対的損得勘定。

・平等主義を気取った、エリート思考、小賢しい評論、見栄の張り方が変わっただけ

 

・Safesafesafe

・安全でないと、美は感じ得ない。

・どこまで自己欺瞞できる。

・君は自分の文脈でしか物事を捉えられない。君は幸せになれない。

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・言葉を発する者として。言葉にする力が弱い。訓練が必要。

感覚値のお喋りになっている。伝わる努力。コツコツやっていかないと。

でも、何を伝える?ゴール地点が明確じゃない。

感情か、思考か、納得か、共感か、理解か。

 

逆の立場で考えてみて。

 

今日思ったこと。

外国語の会議に出て。

まぁ半分くらい何言ってるかわからないから、

どうせならということで、

聞いた内容が日本語で聞くのとどう違うのか考えていた。

 

それは、文を聞いて思いつくコンテクストの量の違いだと思う。

 

日本語の場合、聞いた中身を、瞬時に、日本語を用いて再定義しなおせる。

意味・本質を理解しているからだ、というのは早計な気がする。

むしろ、ある一文という手段を、同時に変換し直している。二つ三つ、もしくは、それ以上の方法で。

それでぼんやり中身を取り出している。

つまり、枠を作っているだけ。

 

もしくは到達ルートをいくつも用意している説もある。

 

その変換については、ほぼ無意識。

どうやってやっているんだろうと考えてみて、思いついたのは、経験則からの圧倒的な演繹かなぁというライン。

単語自体の変換だけではなく、文章構成の予測変換もずば抜けている気がする。人間という生き物は。

 

その変換回数が多ければ多いほど(勿論、変換にはある程度の妥当性がある。変換の妥当性については今は考えないとする)、理解が促される。

 

さて、立場を逆に戻す。

 

すると、よりよく理解されるということは、より変換の道筋を沢山用意できるような文章にするということ。

それも妥当性のある。

 

うーん、それだったら、たとえば、憶測を呼ぶような言葉もあるしな。

変換の能力は個体差だからで終わらない気がするし。

 

難しい。

 

課題 : 言葉の伝え方。